寄附の歴史
地域に支えられてきた名大
名古屋大学は、地域の多大なる支援によって発展してきた大学です。それは、1871(明治4)年を創基とする前身学校の時代から始まっています。医学校、医科大学、八高、名高商等の設置にあたっては、地域の人々が寄附等でこれらを実現させました。
1939(昭和14)年の名古屋帝国大学の創立において、愛知県はその創立費の全額、当時の一般会計歳出総額の約20%に相当する巨額を国に寄附しました。また、創立時に取得した東山キャンパスの敷地約16万1千坪も、多くの土地所有者から無償提供されました。
その後も、戦災から復興し、日本の基幹的総合大学となり、さらに世界屈指の研究大学をめざし、同時に地域の持続的発展に貢献していくにあたって、多くの企業や個人等から、資金や有価証券、建物等の形で多額のご寄附をいただいてきました。下の表に挙げたのは、その主なものにすぎません。
2006年(平成18)年には、「名古屋大学基金」を創設しました。
ここにお寄せいただいたご寄附は、奨学金として学生支援等のために使用され、次世代を担うリーダーとなる人材、「勇気ある知識人」の育成へとつながっています。
名大への主な寄附
(名帝大創立以後)
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1939
- 名帝大創立費及び東山敷地
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東山が名帝大の敷地に決定したことを報じる地元新聞(1939年)
現在の東山キャンパスの始まりは、名古屋帝国大学(名帝大)が1939年に創立された際、多くの地元土地所有者から無償寄附いただいたものです。矢田川廃川跡地、愛知郡鳴海町等候補があった中、東山近辺の約47万㎡の土地が土地区画整理組合から愛知県に無償提供されました。その後も近隣の個人地主等との交渉が続けられ、1948年1月、県が取りまとめた約53万㎡の土地が国に寄附されて、東山キャンパスが正式に名帝大の敷地となりました。
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1943
- 附属医院分院建物(陸田ビル)
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1943年に陸田志よう氏から寄附された陸田ビル(右)
現在、本学の医学部附属病院は分院組織を持っていませんが、1949年5月の新制名古屋大学設置以降、1996年までは医学部附属病院分院が設けられていました。その前身は、1943年5月に陸田志よう氏から寄附を受けた市内中区新栄町三丁目(現代の中区栄四丁目)にあった陸田ビルの敷地・建物を使用した名古屋帝国大学医学部附属医院分室でした。その後この分室は、翌1944年5月に正式に医学部附属医院分院としての設置が認められています。
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1947
- 医学部復興費(応急校舎建設)
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名帝大医学部は1945年の空襲によって鶴舞の校舎のほぼ全てと附属医院建物の約半分を焼失しました。直ちに教育・研究を再開することは難しく、医学部は1945年末、名古屋市千種区城山町にあった愛知県昭和塾堂を借用し、授業を再開しました。敗戦の混乱の中、鶴舞地区の復興は容易ではありませんでしたが、医学部学友会の復興後援会は1947年から1950年まで募金活動を行い、応急の建築ながらも木造モルタル塗の研究室、講義室等が建てられました。それとともに少しずつ各地に分散していた鶴舞キャンパスは復興を遂げていきました。
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1949
- 新制名古屋大学発足
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1949年の旧制大学から新制大学への転換は、2004年の法人化と並ぶ、名大史上の最も大きな画期といえます。旧制の高等教育機関がGHQや政府の動向に翻弄されながら紆余曲折した時代、戦時下に創立された名大は、当時、医・理・工の三学部しかなく、新学部をいくつも設置して真の総合大学となるという困難を抱えておりました。第八高等学校・名古屋経済専門学校・岡崎高等師範学校を名大に包括することで1948年9月に文学部と法経学部が、新制移行と同時に教育学部が設置され、新制名古屋大学は六学部で出発することとなりました。
経済学部経済学科・経営学科を除く文科系学部・学科は名古屋市中区南外堀町の名古屋城内二の丸にあった陸軍歩兵第六連隊の旧兵舎を借用しました。修理され、ペンキで塗り替えられた旧兵舎でしたが、古びて隙間風が入り、廊下を歩くとミシッと音がしました。このように設備面では困難な状況もありましたが、学科・専攻を超えて教官同士の、教官と学生との交流が開放的に行われておりました。1965年に文学部三号館だけが犬山市博物館明治村に移築されましたが、明治時代の旧兵舎時代に改装して展示されており、文学部三号館時代の面影をみることは残念ながらできません。
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1951
- 農学部設置費及び敷地(安城)
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農学部の設置には附属農場をはじめ多くの実習・実験施設の設置が不可欠であり、名大はその確保に苦しんでいました。そこへ名乗りをあげたのが「日本デンマーク」と呼ばれた安城市(当時は安城町)だったのです。安城時代の初期は、スポーツや英会話が盛んで、「安城一家」という言葉もあったそうです。現在この跡地は安城市へ無償譲渡、附属農場は愛知郡東郷村(現東郷町)の農林省試験地を取得し移設されています。
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1960
- 豊田講堂
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完成式典当日の豊田講堂(名古屋タイムズアーカイブス委員会提供)
名大のシンボルの一つである豊田講堂(設計者槇文彦、1962年度日本建築学会賞受賞)は、1960年にトヨタ自動車工業株式会社(当時)から建設寄附を受けた建物です。名称は「発明家豊田佐吉翁を記念する意味で豊田講堂」としたことが記録されています。名帝大創設当初から地元寄附による講堂・図書館の建設方針はありましたが、1950年代後半以降東山キャンパスの整備が進む中で、三代総長勝沼精蔵(現在豊田講堂館内に胸像が設置)の打診を受けたトヨタ自動車工業の石田退三社長がこれに応じてようやく講堂の建設が実現しました。1960年5月に盛大な完成式典が行われました。石田社長は豊田家の先覚者たちの精神が込められた豊田講堂が、教育の振興、科学の発展の一助となることを切望してやまないと語りました。その翌月、6月3日から6日にかけて、これからの名大の中心となるべき豊田講堂を主会場として、キャンパスが分散する各学部の文化祭や体育祭を統一した第一回名大祭が開催されました。
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1963
- 東山キャンパス本部棟
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「たこ足(の)大学」と呼ばれ各地に分散していた名大は、1963年から1964年にかけて東山キャンパスへの施設の集結が大きく進みました。名城キャンパスにあった名古屋大学本部が東山に移転を完了したのは1964年3月のことです。豊田講堂の管理、会議室利用の便、地形上の理由から豊田講堂東側の位置に決定されました。現在の本部二号館がこのとき建設された建物です。当時から、上からみるとH型の特徴的な形状をしていました。この時の本部棟建物は愛知県、名古屋市、名古屋商工会議所などによる名古屋大学整備後援会により建設寄附されたものです。文学部と教育学部の移転費用も同会から支援されており、地域からの大きな期待に支えられて発展してきた名大の姿をここにも見ることができます。
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1964
- 古川図書館(古川記念館)
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古川記念館玄関前の、古川夫妻の寄附等に関する説明プレート
東山キャンパス豊田講堂の南西に位置する古川記念館は、1964年に完成した建物です。名称は故古川為三郎(日本ヘラルド映画株式会社の創立者)・志ま御夫妻から建設資金の寄付をいただいたことに因みます。名古屋帝国大学創設当時からすでに、地元官民各界の建設敷金寄付によって東山新キャンパスに新図書館を建設する計画がありましたが、戦中戦後の混乱の中、その実現は困難をきわめていました。東山キャンパスの整備計画が進む中、前述の寄付が実現し、古川図書館が建てられました。設計は谷口吉郎 東京工業大学教授で、二階建てにみえる三階建てや、東西に長く広く設計された吹き抜けの空間配置などは、平行するグリーンベルトの傾斜や東西の広がりを考慮に入れてデザインされているそうです。1981年に新中央図書館が完成し図書館が移転した後は、古川総合研究資料館となり、現在は古川記念館と呼ばれ、名古屋大学博物館が入っています。
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1987
- 学術振興基金・研究助成基金
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1990
- 学術振興基金
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1992
- シンポジオン
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シンポジオンは、会議室(シンポジオンホール)、レストラン、ティーラウンジ、研究室等を備えた3階建て複合施設で、1992年に竣工・開館しました。1989年の創立五十周年に向けて記念事業が企画され、名古屋大学史の編纂・刊行や学術交流基金(仮称)の創設などと並んで、記念施設の建設が行われることになりました。シンポジオンは、1987年に発足した学外組織である名古屋大学創立五十周年記念事業後援会(初代会長は 竹田弘太郎名古屋商工会議所会頭)が建設し、名古屋大学に寄附したものです。建物名称については、ギリシア語の「シポジオン」が「饗宴」「饗宴の参加者」「饗宴が行われる部屋・場所」を意味することから、学術研究の成果発表等交流の場にふさわしいものとして「シンポジオン」という名称が採用されました。
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1993
- 広報プラザ
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広報プラザ(1993年)
1993年、名古屋大学出版会より、当時、大学改革の一つの課題であった「大学の情報発信・サービス機能の強化」に対する支援策の一環として、名古屋大学広報プラザの建設寄附をいただきました。広報プラザは、社会との連携拠点、大学の情報公開・情報発信施設として、一般市民、入学志願者等を対象に本学における最新の科学研究の成果・研究情報等を総合的に提供する施設で、今日も広く活用されております。
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2004
- 課外活動用設備
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2005
- 課外活動用設備
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2007
- 豊田講堂全面改修・増築
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トヨタ自動車及びトヨタグループ各社の寄附による、豊田講堂の全面改修・増築工事(2007年に完成)
2007年、トヨタ自動車およびトヨタグループ各社の寄附により、豊田講堂の全面改修・増築が行われました。講堂の建設から47年を経て建築家槇文彦氏が再び設計を担当する大規模な工事となりました。槇氏は1952年に東京大学工学部を卒業後、ハーバード大学大学院などで学びワシントン大学助教授となりました。そして58年、グラハム財団の会員として二年間にわたる建築視察のための世界旅行に出発しますが、その世界旅行中に豊田講堂を設計しました。豊田講堂は槇氏のデビュー作であるとともに1962年度日本建築学会賞を受賞し日本を代表する建築家槇文彦氏の出世作となりました。この改修によって、内部施設の充実や耐震補強がなされた一方、その外観の意匠は維持・復元されたのも、豊田講堂が日本の代表的な近代建築の一つとして広く認知されているからにほかなりません。豊田講堂は正面からみた形を門の略字「门」になぞらえており、明確な正門をもたない名大の象徴化された門として設計されております。
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2010
- 有価証券による大学全体への寄附 留学生用寄宿舎用地
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2016
- 学生支援のための寄附(有価証券)による「ホシザキ奨学金設立」
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ホシザキ奨学金授与式(2019年)
フードサービス機器メーカーのホシザキ株式会社の会長ご夫妻が設立した「坂本ドネイション・ファウンデイション株式会社」の株式をご寄附いただき、「ホシザキ奨学金」が設立されました。本奨学金は、「ものづくりを学ぶ、将来ある学生を支援したい」とのご夫妻の意向を受け、給付奨学金として、経済的に困窮した学生に対して給付しております。
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2017
- ジェンダー・リサーチ・ライブラリ
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ジェンダー・リサーチ・ライブラリ
ジェンダー・リサーチ・ライブラリは篤志家によるご寄付により、東山キャンパスの南側、山手グリーンロード沿いに建設されました。ジェンダー研究を実践的に発展させていくことを目的とし、床面積840㎡、鉄骨造の2階建てで、最大4万冊を収蔵できる図書スペース、アーカイブのほか閲覧室、展示コーナー、研究スペース、セミナー室、カフェスペース等を備えた研究活動施設となりました。
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2018
- 研究者支援のための寄附(有価証券)
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2020
- オークマ工作機械工学館
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オークマ工作機械工学館(2020年)
本社を愛知県丹羽郡大口町に置くオークマ株式会社は、1898年に大隈榮一氏が名古屋市に設立した大隈麺機商会に始まる、日本屈指の工作機械メーカーです。2020年4月、東山キャンパスに同社寄附による「オークマ工作機械工学館」が竣工しました。同社と名大のつながりは、1939年までさかのぼります。共同研究・奨学金の設立、研究費の寄附等を受け、一方、これまで多くの卒業生が同社に就職してまいりました。
このような関係のもと、2015年には「オークマ工作機械工学寄附講座」の設置を経て、この工学館の寄附へとつながりました。
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2023
- EI創発工学館
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EI創発工学館:Emergent/Innovative Engineering Building(2023年)
愛知県知立市に本社を構える株式会社FUJIは電子部品組立機や工作機械の開発・製造・販売を行っている工作機器メーカーです。また、東京都港区に本社を置く東京エレクトロン株式会社は、半導体製造装置やフラットパネルディスプレイ製造装置を開発・製造・販売している半導体製造装置メーカーです。このたび、工学部7号館跡地に多様な学びと交流を産み出す場として「EI創発工学館(※)」を竣工するにあたり、そのスペースの一部の整備費用として両企業様からご寄附を賜りました。
※EI 創発工学館:Emergent/Innovative Engineering Building
同館には、工学系を中心に、多様な研究実験施設や講義室、産学連携フロアを整備したほか、館内の各所に机や椅子を置いた共用スペースを配置し、学生や教職員が学び、集うことのできる「居場所」を創出しました。
このほか、地域連携グローバル人材育成拠点として、食堂や売店などの福利厚生施設を併設し、学生広場を整備するなど、キャンパスを行き交う人々の流れを生み出し、学内外の人々が交流する場として活用していきます。